23歳時点での私の人生観(更新予定アリアリ)

はてなブログさん、お久しぶりです。

 

ずいぶん長い休みを頂いて、その間少し旅をしていたのですが、やっぱり忘れられなくなって戻ってきてしまいました。意志薄弱な人間は嫌いですよね。知ってます。

 

 

最近、なんやかんやあって自分のこれからを考えざるを得ない状況になってきていて、それにあたってどんな指向性をもって時間を過ごすのか、いわゆる人生観みたいなものを改めて定義づけしています。

例えば、歴史的文脈としての「リベラル」は「(国家などの)権力からの自由」と「権力による自由」の2つの潮流がありますが、人生を「自由に生きたい」と思ったとき、それはどの角度から自分を見たときにどの程度自由であれば自分は満足するのか、という問いに答えがなければ、その先の行動の軸がはっきりせず、一貫性のない寄り道の多い人生を送ることになります。

それでいいんじゃない、という人ももちろん少なからずいると思いますが、その軸設定を親や周りの同期に委ねてしまった(ことに無自覚だった)結果、適当な会社に入って「本当はこんな仕事したくない、でも給料はそれなりに入ってくるし、将来を考えると現状維持が最善」みたいな思考になる(される)ことがとんでもなく怖い。私は小中高とバスケットボール部に所属していたのですが、小学校の時点で「バスケをやっていても別に楽しくない」、中学校で「別の自己表現の場が欲しい」「競争構造によって辛いことを半強制されている」ことに気づいていたにも関わらず、「でもいままでの経験が無駄になるのは嫌だ」「知り合いの先輩や同期との関わりを絶ちたくない」「中学より高校のほうが楽らしい」などの保守的かつ思考停止な理由で、結局高校最後までバスケットボールを続けていました。もちろんそれによって得られたこともたくさんあるし、関わった人達には有り難いと思っているけれど、人生のうちの貴重な時間を「別に楽しくないし自己表現できないし辛い目にたくさん合う、終わりの時間が来るまで終わらないこと」に大量に費やしてしまったという後悔は一生残り続ける。もちろん、何かを手に入れるには相応の犠牲が必要であることはわかっている。ただし、その犠牲のうちに『もしかしたら他の何かに熱中できたかもしれない、自分がもっと成長したい所で成長できたかもしれない、新しい体験があったかもしれないのに他人に半強制されて過ごしてしまった人生の一部という時間』は含まれていてはいけないと思います。

 

そういう経緯で、今は自分が「60歳くらいで糖尿病で足が壊死して病院で寝たきりになって62歳で死ぬ」なんて考えずに、どのように過ごすかは自分で決めて生きよう、でもお世話になった人への感謝や「わりごどすんなよ」と毎回家を出るたびに送ってくれるばっちゃんの言葉を忘れないようにしようと思っている私です。

 

 

(結婚とか居住とか資産形成とかについて、まとめて「黄金の羽根の拾い方」のレビューとして書けたらいいなあ)